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2005.4.24(日) | 最高の季節、最高の日和、羽田野・西田リーダーのご案内で高野山の女人道を歩いた。 総勢37名とのこと。 高野山:弘仁7年(816)、空海が嵯峨天皇に上秦してこの地を賜り、丹生・高野の両明神を伽藍鎮守のため勧請。 金堂をはじめ諸堂の建立に着手、一山金剛峰寺と号したのが始まりで、現在は宗派を超えた霊場として全国から参拝者が絶えない、とのこと。 オイラも四国遍路結願のご報告時には参拝した。 また、去年の6月15日に何も知らずに車で参拝したときには、「青葉祭り」で立ち往生したことを思い出す。 |
7:10 | 自宅スタート | ||||
8:12 | 南海難波発。 南海の改札前で増田さんが声をかけてくれ、「歩け歩け新聞」をくれた。 「天美」から山本・西村・辰巳・中道氏たちが乗ってきた。 |
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9:50 |
極楽橋駅に着くと羽田野さんが待っていてくれる。 先発は10名ほどすでにスタートしている」と。 |
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10:00 |
極楽橋駅をスタート。 好天とはいえさすが高地、空気がひんやり涼しい。
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駅を出るとすぐに不動坂に入る。この坂道、最初は石畳だが、あとの半分はマルチングされたとても歩きやすい道に造られている。 が、上り坂で結構厳しい。日陰は涼しいけれど、歩いていると汗が流れてくる。 |
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10:35 | 「清不動堂」着。 | ||||
10:48 | 不動坂口の「女人堂」着。 ここで先発隊と合流できた。合流すると、「女人堂バス停」のうしろから山道に入り弁天岳を目指す。 高野山は発祥当時から明治初期までは、弘法大師の母でさえ立ち入れなかったという女人禁制の山で、お山に入れぬ女性達は高野三山を巡る尾根を辿ったという。 高野山への道は七口あったそうでその入り口にこの「女人堂」がありここより先が女性禁制、と。 いまでは「女人堂」はここのみになっている。 |
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11:14 | 「弁天岳(984M)」着。 弁天岳まではずーっと上り坂だが、ここから「大門」まで鳥居をいくつもくぐりながら約15分下り坂。 |
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11:30 | 「大門」着。 1705年(宝永2年)に現在の大門が出来ました。高さ25.8メートル、法橋運長作の金剛力士像を左右に安置した重層の楼門です。高野山には金剛峰寺を始めとして数々のお寺さんが、それぞれ山門をお持ちですがこの大門は高野山全体の山門であって総門ともいいます。 |
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12:10 | 「女人道ピーク(946M)」着。 ここで昼食。周囲の山々が見晴らせて絶景。 食後足元を見ると「わらび」が出ているので、少々失敬。 「ふきのとう」も出ていたがこれはトウが立ちすぎていた。もう少し早い時期に登りたい。 |
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13:45 | 「奥の院参道入り口」着。 参道前には自家用車の駐車場があり、バスもここから発着している。 われわれグループの何人かはここでサイナラ。 弘法大師御廟でお参りもそこそこに左手の山道に入る。 |
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14:12 | 「転軸山(915M)」着。 もう後は下り坂ばかり。
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14:25 | 「多目的広場」着。 | ||||
14:45 | 「一の橋」着。ここで解散するも駅までの下り道は皆さんと一緒。 | ||||
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15:13 | 朝、皆と合流した「女人堂」着。 | ||||
15:49 15:52 |
「極楽橋駅」着。 電車で帰途に着く。 帰りの電車では途中から大勢の中学生が乗り込んできた。 北口さんがなんだかんだと気安く話しかける。 「河内長野から22Km 歩いてきた」と得意そうに話している。 学校は清風学園中学1年とのこと。 「小学時代から毎日塾通い、夕食は塾で。家に帰るのは夜10時半頃だった。」「今では周囲は賢いやつばかりだ。」と。 そう言われればなんとなく青白い顔に見えてくる。 大変だなあ。ご苦労様。明日の世のため頑張ってくれ、と声援を送りたい。 電車の中で福本氏・八田氏に反省会のお声を掛けたら、「今飲んでる。今反省している。」と電車を降りてからの反省会は無し。 ションボリひとり家に帰る。 |
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16:45 | 自宅着。自宅では即風呂に入り一人で盛大なる反省会! | ||||
本日の総歩行距離:22.5Km。総歩数:32,000歩。総労働時間:9時間30分。 お疲れさんでした。 |