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2005.3.26(土) | 今日は、来月29日(祝・金)に行われる「大阪トライウォーク、歴史の散歩道を歩いてみませんか。上町台地を歩く。」で20Km熊野街道コース・10Km四天王寺ワッソコース・6Km上町台地コースの3コースの内の10Km四天王寺ワッソコースの下見に参加した。 市街地を周遊するウォークで歩道は狭いし、信号は多いし、本番では大人数をうまく捌かねばならない役員の方々のご苦労が今から心配だった。 |
8:00 | 自宅をスタート。 |
9:00 | 谷町4丁目 NHK前に集合。全員で34名。 空は見事に晴れ上がっている。 羽田野さんの準備体操で体をほぐして |
9:30 | スタート。 |
9:45 | 「越中井」。 「・・・ガラシャは明智光秀の次女にして名を玉子といい、細川越中守忠興公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました。 慶長5年(1600年)関が原の合戦が起き忠興公が徳川家康に従って会津上杉を征伐に出陣した留守に反家康の石田光成が大名妻子たちを大阪城に人質にしようとしたが、ガラシャ夫人は聞き入れず、光成に取り囲まれ是非もなくキリスト教は自害を禁じているため、家来に首を打たせ家屋敷に火を放ち潔く火中に果てました。時にガラシャ38歳。 この越中井はその屋敷の台所にあったと古くから伝えられています・・・。」 壮絶ですね。 |
9:55 | 玉造稲荷。 「当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。 聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったと記されています。」 昔、お伊勢参りには玉造稲荷神社に参り、道中安全の祈願をして旅立ったといわれ、この旅を引き継いで始められた「初詣・伊勢迄歩講」の出発点がこの石碑である。 |
10:10 | 三光神社。 すぐ隣に写真の「史跡真田の抜け穴跡」がある。 「この穴から大阪城を出入りしていたとか、ここから徳川家康の本陣まで奇襲したとかいろんな説がある。 真相は、真田丸に対陣していた前田利常が豊臣を揺さぶるための示威演出の跡だとか。」 |
11:55 | 四天王寺、昼食。 「四天王寺は今から約1400年前、推古天皇元年 (593)に聖徳太子が建立された、日本仏法最初の大寺である。 新しく渡来した、仏教を支持する蘇我氏と日本古来の神を推す物部氏の二大豪族の狭間で 、弱冠16歳の聖徳太子は仏教の守護神、四天王に祈願して戦いに勝利した。 その報恩謝徳のため、建てられたのが四天王寺である。 四天王寺は四箇院 (敬田・悲田・施薬・療病) を構え、広く一般民衆に手をさしのべ、太子信仰の拠点となると同時に、庶民救済の中心地となった。」 |
12:08 | 安居神社。 |
12:25 | 口縄坂。 「坂の下から眺めると、道の起伏がくちなわ(蛇)に似ているところからこの名が付けられたという。・・・」 小林常祐さんに天王寺に七坂がある・・・ことを教えてもらった。 「清水坂」「愛染坂」「口縄坂」「源聖寺坂」「真言坂」「相合坂」「逢坂」 (*2005.5.3、桑野さんが「相合坂」は間違いですよ。→「天神坂」ですよ。」と教えてくれた。訂正します。) このあたりお寺が多い。 |
12:40 | 生国魂(イクタマ)神社。 |
12:45 | 井原西鶴像。 「西鶴は商人の町、大坂で1642年(寛永19)に生まれた。革新的な俳諧師として活躍する一方、浮世草子の作者として『好色一代男』や『日本永代蔵』など、人間の欲望や享楽的な生活を描いた作品を数多く発表した。1693年(元禄6)没。」 |
12:54 | 高津宮。 「・・・当宮は浪速の地を皇都(高津宮)と定められ大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王神と仰ぐ神社であります。 仁徳天皇が高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのを見られて人民の窮乏を察し直ちに諸税を止めて庶民を救済されました御仁政はあまねく国民の敬慕する処であります。」 |
13:14 | 近松門左衛門の墓。 |
13:30 | スタート地点、谷四のNHK前に到着。解散。 |
14:30 | 自宅帰着。 本日の総歩行数:23,000歩、正味歩行距離:11Km。 |