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コース:地下鉄江坂駅~雉子畷の碑~垂水神社~豊津公園~稲荷神社~檜坂道道標~江坂神社~服部緑地~阪急服部天神駅 | ||||||||||
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連日死ぬような暑さ! 「それでも行くの?」と、オッ家内。 |
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8:46 | 地下鉄難波駅に行くとどこかで見かけたオッサン二人。 電車の中でシャッター、ぴしゃり。
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9:00 | 集合時間になるとそれなりの参加者が・・・ 後で数えたら27人だった。(公式発表29人)
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9:11 | スタートしてすぐに大同生命ビル~延命地蔵 ワタシが社会人になって12年ほど立った頃、このど田舎にこのビルが建った。 周りはまだたんぼだらけだった、と思う。 姉がこの近くに住んでいて訪ねるのにあぜ道を通っていった。
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9:39 | 雉子畷の碑
大阪の長柄橋に残る人柱伝説にまつわる伝承地である。 その昔(推古天皇の頃)淀川に橋を架けようとしたがなかなか出来ない。で、とうとう人柱を立てることとなった。 しかし人選がなかなか決まらないために、垂水に住む長者の巌氏(いわじ)に相談したところ、 「袴に継ぎのある者を人柱にすればよい」という話でまとまった。 ところが、袴に継ぎのある人物は、巌氏自身しかいなかった。 このため、言い出した巌氏が自ら人柱となる羽目になったのである。 そしてこの人柱によって、長柄橋はようやく完成となった。 巌氏の娘に光照前(てるひのまえ)という者があった。父が人柱になって以降、人前で口をきくことがなくなってしまった。 その娘が請われて河内国禁野の徳永家へ嫁したのであるが、婚家でも一切口をきかないためについには実家へ帰されることになる。 夫に連れられていく途中、どこからか雉の鳴き声がする。 その声を手掛かりにして、夫は持っていた弓矢で雉を射殺した。 それを見た時、光照前は悲しみのあまり ものいわじ 父は長柄の 橋柱 雉も鳴かずば 射られざらまし と詠ったのである。 それを聞いた夫は、妻が口をきかなかった真意を悟り、実家へ送り帰すことなく、二人して我が家へと戻ったという。 そしてその時に射た雉を埋めたというのが、この雉子畷のあたりであるとされる。 また光照前は夫に先立たれた後に出家して不言尼と名乗り、父の菩提を弔ったという。 この伝承が後の「雉子も鳴かずば撃たれまい」という諺の由来の一つとなったと伝えられる。 大昔から淀川は周囲の庶民を苦しめてきたのですね。 |
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9:40 | 垂水神社
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10:09 | ダスキン本社ビル
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10:14 | ダスキンビルから豊津公園まで来ると、目の前はスタート地点の江坂駅。 Sさん、毎度冷たいものやおいしいものをありがとう。
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10:30 | 稲荷神社
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10:45 | 江坂の道標(江戸時代のものらしい) 「かちをぢ」(勝尾寺)の文字が見える。
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10:54 | 江坂神社(素盞嗚尊神社)
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10:59 | 2時間も歩くとワタシはもうフラフラ。 服部緑地で「もう、帰りたい」
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12:05 | ゴール近く、服部天神。 昔、朝鮮を経由して吾が国へ渡って来た秦の人々は、機織りの技術を吾が国に伝えましたので、 秦氏という姓氏をあたえられ、機織部として各地に住み着きました。 当地「服部」の地名も、このあたりに秦氏の人々が住んでいたことから成りたったものと思われます。 秦氏は、医薬の祖神・少彦名命を尊崇していましたので、この地にも小祠を建てて、少彦名命をおまつりしていました。
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12:10 | ゴール、服部天神駅に着くとM氏が「甲子園の開会式を見てきた」 とご報告。 みなさん近くの公園へ反省会に・・・ ワタシはもその元気なく梅田でT岡氏と少しだけ~~
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15:30 | 帰着。 オツカレサンでした。 | |||||||||
本日の歩数: 約 19,794 歩。 | ||||||||||
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