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2014.6.15(日) | |||||||
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イヤー~~疲れました。 柳生街道滝坂道に入ってから峠の茶屋までの厳しい急坂! その後どこまで続くロングロングロード。 救われたのは時折涼しいそよ風&ゴールに着いての一杯のビール。 |
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9:00 |
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9:39 | 奈良町から高畑町の奈良市写真美術館を左に見て進むと新薬師寺。 入江泰吉記念奈良市写真美術館は奈良県奈良市にある西日本初の写真専門の美術館。 奈良大和路の風景・文化財を撮りつづけた写真家・入江泰吉の作品を中心に、展示と保存・研究活動を行っている。
ちょっとお辞儀でもするのかな と思ったが、信仰心のない男供、素通りしてどんどん進む。 |
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10:00 ~ |
柳生街道に入ったところでトイレ休憩、そして石畳道に入る。 谷川沿いに登ってきたこの道は滝坂道と呼ばれ、江戸中期に奈良奉行により敷かれた石畳の道は、昭和の初めまで柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰っていくのに使われた。
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10:23 |
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10:34 |
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首切り地蔵の少し先に春日山石窟仏。
「この石仏は東大寺大仏殿を建てるために石材を掘り取った跡に彫られたものです・・・」と。 |
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11:00 | 峠の茶屋着。 石切峠の近くにある茶屋だ。 家のカモイには、古めかしい鉄砲や槍が掛けられ、武芸者が飲み代のカタにしたという。
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11:10 |
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11:47 ~ 12:15 |
誓多林町から須山町に入り茶畑の上に太安万侶の墓。 その墓までの坂の強烈なこと!!参ったね。 ここで昼食。 太 安万侶(生年不詳 - 養老7年7月6日(723年8月11日))は、奈良時代の文官。 当時はまだ文字が発達していない時代、記録は記憶に頼っていた。 そこに強烈に記憶力の鋭い人物がいた。 稗田阿礼という。 彼は歴史を全て覚えこんでおりそれを暗証できた。 時の天皇はその稗田阿礼のことを知り、太安万侶に彼の暗誦する事柄を聞き取り記録に残すよう元明天皇は厳命する。 古事記である。
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12:37 |
光仁天皇(第49代)陵着。 息子の山部王は、「
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13:05 | 午後の道は殆ど平坦道。 楽といえば楽だが今までの疲れが溜まっているので足は棒。 田原ふる里ステーションで休憩。
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田原御陵前バス停から脇道に入ると春日宮天皇陵。 その入り口には万葉歌碑。 脇道の中ほどにはササユリ。 そして春日宮天皇陵。 ここでクイズ:春日宮天皇は歴代何代でしょう?
志貴皇子は、天智天皇(第38代)の七番目の皇子で、光仁天皇のお父さんです。 上の歌碑は志貴皇子の歌で 「いわばしる 垂水の上の あ蕨の 萌えいずる春に なりにけるかも」 と。 クイズの答え:春日宮天皇は正規の天皇ではありませんので歴代の数字はありません。没後「天皇」の称号を与えられた追尊という。(弘仁天皇の父ゆえ) |
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14:13 |
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14:22 |
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正暦寺からの山道を下りると円照寺へ進む。 が、やはり立ち寄らない。 円照寺は、奈良市山町にある臨済宗妙心寺派の尼寺。山号は普門山。斑鳩の中宮寺、佐保路の法華寺と共に大和三門跡と呼ばれる門跡寺院である。 華道の「山村御流」の家元でもある。別名、山村御殿。 会長と話していて「大和三門跡」を思い出そうとしてもなかなか出てこない。 円照寺と法華寺は出てきたが中宮寺は会長が思い出してくれた。 やはり彼のほうが“若い”。
歩いているとK藤氏がマロの疲れをほぐしてやろうの気持ちからか 「先日テレビで円広志が“頑に”のことを“がんくなに”と言っていた」と笑い話。 有名人のドバカ振りは面白いね。 |
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15:20 | ゴール手前に帯解寺。 お参りするかと思えどここも立ち寄らない。 信仰心が足りないね。(もっとも赤ちゃんの事を願う年令は誰もいないか) | ||||||
~ 16:05 |
帯解駅で11名の反省会。(S井・S賀夫妻・K保・K藤・F原・T・D戸・S室・M・マロ) | ||||||
16:40 ~ 17:40 |
JRで奈良に出て、「王将」で5名の反省会。(K藤・M・S賀・F原・マロ) | ||||||
~ 19:00 |
更にH藤氏と西大寺駅「豊祝」で二人反省会。 疲れが激しかったため、酔いの回りは速かったね。 |
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20:15 |
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