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参加者:118名 |
寒波が来る!との天気予報を聞いて出かけたが大当たりの天気予報。 寒かった。スポーツウェアーの上に合羽を着てフードをかぶり、ズボンの上にももう1枚穿いてもまだ寒い。 それでも午後は日差しを受けて幾分温かだったか。 「泉南の旧街道」、紀州街道・根来街道・孝子越街道を歩く。 |
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6:50 | 自宅をスタート。 天王寺から日根野駅というところを経由して長滝駅まで。 |
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9:00 | 長滝駅をスタート。 まずは紀州街道へ。 新聞には集合時間を「9:30」としてしまったとかで、一般参加者が9:30にやってくるので役員の一部の方はそれを待つ・・・とか。 |
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9:20 | 蟻通神社。 寒いのでオーバーズボンをリュックから出して穿く。 【蟻通伝説】 むかしむかし、京の都ではお年寄りを都の外へ追い出すことになっていました。 でも、親思いの中将は両親を都から追い出さずにひそかにかくまっていました。 あるとき帝から「七曲の玉に糸を通せ」と命じられました。こんな難しいことは誰も出来ませんでした。 そんな時、この中将は親に相談すると両親は「七曲の穴の出口にミツを塗り、入り口の穴から蟻に糸を結んで進ませなさい」と教えてもらうとどうでしょう!ミツに惹かれた蟻に結ばれた糸は難問の七曲の穴を通りました。 これ以来、知恵のある年寄りを敬い大切にするようになったとさ。 |
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9:35 | 八丁畷地蔵。 昔はこの辺り、追いはぎの出る寂しいところだったらしい。 このお地蔵さんのお陰で追い剥ぎから難を逃れた大坂の人達が講を組んで、ここへ灯籠を奉納した。 |
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9:44 | 塙団右衛門直之の五輪の塔。 塙団右衛門直之は加藤高明に仕えていたが主君と意見が合わず、「鉄牛」と号して出家していたが、豊臣方の招きに応じて武将に戻った。 夏の陣の時、大野治房の軍に加わり、徳川方とここで対戦したが、団右衛門は守りを固めようとする大野治房と意見が合わず、突出して徳川勢に突っ込んで壮烈な戦死を遂げた。 その後紀州藩士の小笠原作右衛門が団右衛門の武勇を顕彰するために立てたのがこの五輪塔である。 |
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9:59 | 樫井古戦場跡。 慶長20年(1615)大坂夏の陣の時、大坂方は大野治房を将とする2万騎、徳川方は浅野長晃の軍8千騎がここで相対した。 戦闘は熊野街道沿いや樫井川の川原で行われたが、塙団右衛門などの突出があって、大坂方はばらばらに戦ったので、数が優勢であったにも拘わらず大敗して逃げ帰った。 |
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10:05 | 海会寺跡。 白鳳時代(約1350年前)に建てられた古代寺院「海会寺」跡とその建立を行なったとされる豪族の住居跡が完全な姿で発見され、国史跡の指定をうけている。その発掘調査から、古代の政治の中心と強いつながりをもった有力な豪族が何世代かにわたりこの地域を治めていたことがわかってきた。 |
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10:35 | 旧街道というだけあって旧跡が多い。 信達宿本陣。 この地は、中世より賑わった熊野詣の宿駅として栄え、江戸時代には紀州・徳川家の参勤交代の街道(紀州街道)となり、本陣・旅籠などが設けられました。 |
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10:52 11:30 |
往生院。 私立図書館。 昼食、館内のトイレを借りる。 抽選会が行われる。83番のマロにも当たった。 |
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12:10 | スタートは12:15と知らされるが、寒いのでみんな図書館の中に入る。静かな図書館にこんなに大勢が入ってもいいのかな、と思っていたら案の定、会長から「皆出ろ、皆出ろ!」と。 予定よりも早く午後の部、スタート。 午後は「根来街道」から。 阪南市に入る。 |
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12:54 13:09 |
孝子越え街道に入る。浜街道だ。 善性寺。本願寺尾崎別院。 |
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善性寺を過ぎてえびの浜沿いを歩く。 鈴木さんが防波堤に登ると北口氏が飛んで降りろと手招きし「つぶれるかな?」 角氏が遠くの淡路島・四国・和歌山を教えてくれる。 |
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13:56 |
午後のウオークはアッという間に終わった。 ゴールの南海電鉄・鳥取ノ荘駅発の電車に乗る。 電車の中で田中さんが「私の家の近くに念仏さんという苗字の人がいるよ」と教えてくれる。 マロが珍しい苗字を集めているのを知っているから・・・。 |
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16:00 | 自宅に帰着。 今日は全国的に真冬並みの寒さだったとか。 北海道から日本海側は雪が厳しかったそうだ。 |
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本日の総歩行数:26,119歩、ドアToドアの総歩行距離:約 18Km。 |